昭和54年10月3日 朝の御理解
御理解90節 「上から下へ流すのは容易いが下から上へ流すのはむつかしい道を開くと云うても匹夫の俗人から開くのぢゃからものがむつかしうて暇が要いる神のおかけで開かせて貰うのぞたとへ一時はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」
昨日の朝食の時でしたけれども新聞を開かせて頂いたら水谷八重子が亡くなったと大きな記事が出ておりました。私はそれを見てびっくり実はしたんですけれども。昨日のお夢の中に水谷八重子のZ『不如帰』と言うお芝居がありますね。立派にあれは片岡孝雄ですかね。まあだそれこそ彼女にとってから、言うなら孫くらいな相手役をいわゆる不如帰ですから浪子と武男のお芝居なんです。
そのお芝居を私、見た事がありますが、その浪子がもういよいよ臨終と言う素晴らしい場面があるんです。臨終の場面であんなに素晴らしいお芝居と言えば、もう不如帰ぐらいなもんぢゃないかと思うんですけどもね。素晴らしんです。その場面を私はお夢の中に頂いてから本当に臨終の場面が素晴らしい。そしてそれがもう何とも言えん、素晴らしいお芝居の雰囲気をかもしながら静かに息を引き取っていく。 だからこのまま本当に亡くなったら、いよいよ役者冥利に尽きる事だろうなあと言う夢で思っておるお夢でした。もう何のために私は忘れておりました。したら新聞を見てから、あら今日、私は水谷八重子のお芝居で不如帰の浪子に扮した水谷八重子が亡くなって。あの亡くなる場面を頂いて、そしてそれは私は思うた事だけれども。あのままもし臨終になったら、こんな素晴らしい大往生はないだろうと私は思うたお夢であったが。もう78歳(74歳)ですかね。 あの若々しいそれで何か癌が二つ位、その癌を克服しながらの芸道に精進しておったと言う事でございますけれども。まあ一代のまあ名優でしょうねえ。そして六十年からの芸歴と言う事でございますから。小さい子供の時に夏川静枝としたのが初舞台と言うのが書いてありましたが。六十年間の間もうそれこそ苦しい言うならば、と言う事ではなくてもうそれこそ今日の御理解ぢゃないけれどもね。 初めの間は下から上へ水を流すような難しいさはあったかもしれませんけれどもね。徳を受けて辛抱して行く間にそれこそ上から下へ水を流すような状態であっただろうとこう思うんです。この位芸熱心な人はないと他の方達が沢山言うとりますが、もう本当に言うならば芸一筋に生き抜いた人ですが。 私共の場合はまあ信心一筋に生き抜かせて頂いて、初めの間はそれこそ辛うて辛うて泣きましたけれども。辛抱しいしいに辛抱しておったら思う事もほしい事もなくなって有り難うて有り難うてと言うお心の状態が開けになった三代金光様のようにね。そこんところを頂く事の為に私は信心でなからないけないと思う。
今日、私は水谷と言う事がね。いわゆる水であり谷でありして、それが大川にもまたは大海にも流れて行くわけでしょうけれども。それこそ初めの間はね、それこそ木の葉の下をかいくぐりながらの水滴なようなものが集まって谷川に流れる。そして大川に打ち出してそして大海へ。もうそこには一滴の水であっても、もう即大海の水である。 私共が一俗人の凡夫からとここにおっしゃっておられますがね。その俗人からです。段々言うなら生神を目指しての信心ね。言うならば天地と一体になれれる手立てね。私自身は一滴の水のようなもんですけども大海に流れこんだら大海の水と同じと言うような心の状態。言うならば天の心を心とし、地の心を心とする。そう言う生き方が身に付いてくる限り。もうそれは教祖のおことばを借りると天地と同根と言ったような事になるのです。そう言う信心をお互い目指して行ってるんです。 人力に見切りをつけて神力に縋れ人力自から湧くであります。自から湧いてくる人力と言うものは、もうそこには無理もなからなければ、いうならば辛抱しなければならんと言う事はありません。それこそ上から下へ水を流すようなおかげが頂かれる。道を開くと言うても凡夫の俗人から開くのぢゃからとおっしゃとられる、その道を開くと言うのが人力の間は難しいね。
神力に縋って一生懸命の修行の時は有り難い。それが自から湧いてくる人力と言う時にはもう自分が開くのではない神様が開いて下さったその道をたどらして頂けばいいのである。自分で開くと言う我がもうなくなっている。そう言うところをここでは辛抱していく間に徳が受けられるとおっしゃるのはそう言う事ぢゃないでしょうか。そこまで行かなきゃいけんですね。 そして言うならば大往生の出来れるおかげね。言うならば好きなお芝居をこれは私がお夢で頂いたようにね。させて頂きながら臨終の場面でね。もう皆も言うならば、かたずをのんでと言うかね。感心しながら見らせて頂いておりながら、そのままあの世に行くようなおかげを頂いたらどんなに素晴らしい事だろうかと。
水谷八重子の場合も舞台ではなかったけれども、今新橋演技場かどっかでお芝居をしておって。そして中途から役を代役、娘にさせてそして自分は病院に入院されたらしいですね。そして、それこそ眠るような大往生であったと言うふうにしてありますがね。
私がお夢に頂いたような心の状態でお国替をされたのぢゃないだろうかと思います。私共もそれこそ水谷八重子ぢゃないですけれども。なら今日の御理解から言うとね。水であり谷でありね。それは一滴の水であるにちがいはありませんけれども、大海に流れ込んこんだらもう大海の水。 私共がお国替のおかげを頂く時には、もう天地と共にあるところの心の状態をもってお国替出来るようなおかげを頂く。それには初めの間は泣く泣く辛抱と言うところもありますけれども匹夫の凡夫だから、なかなか難しい事もありますけれども、その難しい事の中に、辛抱しながら辛抱の徳を受けて行く。
もう自分の力ではどうにも出来ないと言うところに行き当たる。そこからね。言うならば神力無限の働きを受ける事が出来るね。もう私ではどうする事も出来ない。言うなら障子一重がままならぬ人の身である事を悟らして頂いて。あなたのおかげを頂く他に手はないと言うところに私共の信心が至ったところに、自と湧いてくるのが人力であります。いわゆる本当の力ですね。
この人力は朝参りなら朝参りがひとっも辛いどころか有り難うして楽しうてと言う事になってくるんです。御用させて頂くと言う事がもう有り難いんです。勿体ないんです。今日、私頂きましたが、この前、虚無僧のお知らせを頂いておりましたが、虚無僧があの天蓋と言うですかね。あの被りものを取ったところを頂いて合楽の信心が段々世に問われるようなおかげになってくる。
あっよい音色がどこからどげな人が吹きござっやろかと思うておったら。初めてその天蓋を取って言うならばあっあの人があの音色はあそこから流れて来とったばいのと言うような場に現在、合楽ではあると言う事です。 段々教内にも勿論教外にもそれが伝わって行く事でしょうけれども。ならここで言われる。合楽理念が簡単です。明瞭です。しかもおかげが確かですね。一寸八尺の竹を只穴のいくつかをほがして、そしてそれをあの吹くと言うのだからこんな簡単な楽器はないでしょうね。合楽の信心にさも似たりと言う事でございます。明瞭ですと言う事になってくると、それを一つの楽譜と言うものがありますから。それに合わせていけばそれに習っていけばね。言うならばそれこそどこからあの音色は流れてくるだろうかと言うような音色が出てまいります。
そこで天蓋を取った。あっ音色は合楽から流れとったばいなと、皆が注目するようになった。この頃の壮年部会も教団の中でもいろいろ評判の高い牟田先生が講師として見えられた。今日はいよいよ婦人大会に、前の教務所長であった森先生、多久教会の教会長であります。先生が講師としておい出られる事になってきた。今までは内部的な事で、内々の先生でと言うのでしたけども、外部に問うていっとるわけです。また、これから問われる事にもなりましょう。 言うならば合楽の信心を見聞きされて、まあ言うなら大変悪名が高い合楽ですから評判のごとなかなと言う事になってくるでしょう。そして、なら最近学院で合楽の教典感話が金光大神の勉強の時には、それを利用される事に昨日決定したと言う事でございますけれどもね。本部ででも、それがなら問われる事になって来たと言う感じですね。ですからいよいよ問われ出したのですから、今度は問われ出した合楽の信心が素晴らしくっても、その素晴らしい信心を頂いておる皆さんの一人一人が素晴らしくならなければだめなんです。
いやああっちは教会だけは素晴らしいか先生だけは素晴らしかばってん信者はと言われたんぢゃいかんです。信者そのものも言うならば素晴らしくならねばならない。為に今日の御理解でないですけれども、初めの間は上から下へ…下から上へ水を流すのように難しいけれども。そこを辛抱しぬかせて頂いて言うならば辛抱しぬく間に徳を受けて、それこそ上から下へ水を流すように、しかもその稽古と言うものはね。言うならば初めの間は泣く泣くであってもそれが有り難うして有り難うしてと。お日参りも言うなら日参も教聴もね。家業の行もいよいよ有り難い尊いものとして身に付いてくるね。 そこから自と湧いてくる人力ね。そこに限りないおかげも約束されるね。合楽理念は簡単です。明瞭ですと言うのはそこんところの過程をたどらせて頂いてからのものを持って初めて簡単です。明瞭です。おかげが確かですと言うふうに言える事ではないでしょうか。 もっと素晴らしい事は言わば合楽の信心が外に問われる。あの音色はどこから、あれは合楽から流れておった。その合楽から流れておる尺八の音色は三味線と合わせてみたらぴったり。琴と合わせてみたらもう何とも言えん。言うならば三部合奏のあの素晴らしさと言うものは、これは日本独特の楽器ばかりですけども、もう一切のものに合うていくと言う合奏が出来ると言う内容を持っておるのが合楽理念なんです。
これはだからキリスト教にも仏教にもね。合楽理念が入って行く事によって言うならキリスト教も素晴らしくなる事でしょうし、仏教も素晴らしくなるでしょう。
お道の信心も合楽理念が本当にね。取り上げられるようになって初めて金光教の信心と言うものが人が助かる事の為の言うならば信心。成程前代未聞の信心と言うような事になって行く事でしょう。 その私がここで吹きならす尺八は一管の一尺八寸の竹から生まれておる音色でありますけれども。その音色がどういう楽器にでも合う。そして素晴らしいと言うところに今後の合楽の神様の願い、期待と言うものはかけられておると言うふうに思います。
為には皆さんも只合楽理念が素晴らしいだけでなく、素晴らしい合楽理念によって素晴らしい言うならば有り難い世界。おかげの世界にいわゆる真・善・美、輝くような世界、貧・争・病のない世界、そう言う世界に住まわしていく。いわゆる住み変えていけれる。言うならば要は段取りとか段階がこの御理解九十節には説いてあると思うですね。
初めの間は辛うて辛うて、初めの間はやっぱり難しい事もあるけれども。その難しい事も合楽理念を持ってすると有り難くなるって、楽しくなるって。そこに神愛を感じる。神願が感じられるから。だから有り難い楽しい、それこそ水谷八重子ぢゃないけれども。六十年間のその舞台生活と言うものがそりゃまあ、そうにゃ苦しい事ぢゃったろとは人にも感じさせない。
自分としてもこれ位芸熱心な人はなかったと言う事でございますけれども。それが楽しいのである。自分は癌の病気を二つ持っておっても舞台に立つ事の執念のようなものはいつも燃えておったと言う事です。そしてあのいつも名舞台が生まれたわけです。 ですから私共もね。なら今日は水谷八重子と言う事は、もう七重も八重もと申しましょうね。いうなら水谷と言う事は水が谷に落ちて川に落ちてと言うような意味あいにおいて。今日は水谷八重子のしかも私が一昨日、昨日の夜に頂いておった水谷八重子の不如帰の場面からそして昨日、最近私テレビを見らんから知らなかったんです。そして新聞を見たら水谷八重子が亡くなったと言う事が大きく見出してある。 この頃、目が悪いから自分で読めませんから高橋さんに読んでもらいました。そしてまあいよいよ感心したと言う事よりも私は実はびっくりしましたんです。何の為に水谷八重子のあの不如帰の場面。そして私が思うた事がそのままだったからです。
あの臨終の場面の素晴らしさがあのまま本当の臨終になったら、いよいよ素晴らしいだろうなと思ったら、その通りの事が事実起こっておったと言う事を昨日聞いてまあおどろくやらね。御神意の深さやらを思うたわけですけれども。
今日たまたま九十節の御理解を頂いてね。上から下へ水を流すように容易う、言うならば芸の勉強も水谷八重子が出来たであろうように、私の信心もやっぱりそうだとこう思うんです。どんな修行さして頂いても、それが有り難い、勿体ないで。そしていよいよもってその合楽理念の確立を向かって進ませて頂いておる。
それが今まではどこから音色か分からなかった。それは天蓋をかぶっとったから、神様は天蓋を取らして下さった。はあ、あそこから流れてきよったばいなあ。ならその音色を言うなら皆が認めてくれるようになり、自分の持っておる楽器を合わせて見たらぴったり合うた。しかもそれが素晴らしいと言うならば琴、尺八、三味線のね。あの三部合奏が素晴らしいような音色が出てくるような一つ合楽でありたい。また、教団でありたい。
また、各宗教宗派は違ってもです。合楽理念はあらゆる宗教者がひもとく事によって本当の生き生きとした生きづく宗教と言うように変わってくるだろうと言うような、私はまあ大きな願いを持っております。為にはまずんなら合楽の地元の人がまたは御信者さん方がそう言うおかげをね。いわゆる実験して実証していかなければいけんです。「どうぞ」